新チームK『RESET』・新チームB『シアターの女神』比較
※ネタバレ含
- 新チームK『RESET』
・M1『RESET』:ハイキック。新しきを取り込むために過去を蹴散らす。過去がある前提の上で始まる新K。
・「自」が「自」について歌う楽曲多数。アイドルとしての「自」、架空の設定の人物としての「自」。
確固たる「自」の強烈な発露。自己言及。実存主義的。
・拒まれる聴き手の感情移入。傍観型。
・チーム全体、メンバー全員に強い「自」を認めさせることで、各メンバーは同等に扱われる。
・初日アンコール後MC:キャプテン秋元才加が仁藤萌乃を指名、コメントは1人のみ。
- 新チームB『シアターの女神』
・M1『勇気のハンマー』:発見・採掘。過去の有無にかかわらず、未踏の地を開拓していく新B。
・「自」が言及するのは「他」。あるいは、誰でもあると同時に誰でもない無名性に包まれた「みんな」。
「他」が言及してくる「自」(『シアターの女神』)。構造主義的。
喪失もしくは隠蔽された「自」。
・空虚な「自」=Xには任意の聴き手が代入される。共感・没入型。
・ストリップしていこうとする指向性は見られるが(『愛のストリッパー』)、脱いでいった末に何がどれくらい残るのかは現時点では不明。
・個人の「自」が欠けているため、人為的にセンター或いはエースを立てる(柏木由紀ソロ『夜風の仕業』)。
・初日アンコール後MC:河西智美の案内から、全員コメント。
※書きかけ
16thシングル楽曲・PV分析
ポニーテール | 盗まれた唇 | 僕のYELL | |
---|---|---|---|
ダンスショット前景 | 海、白砂 | 火 | 土、草 |
ダンスショットカメラ | 高所俯瞰(空撮) | 低所アオリ(腰高) | 左両者(クレーンショット) |
ダンスショット光源 | 太陽、順光 | ライト、順光 | 太陽、順光・側光 |
リップシーン光源 | 太陽、逆光 | ライト、順光 | ライト、順光 |
スローモーション | ダンス外 | ダンス | ダンス外 |
色 | 明 | 暗 | 明 |
明暗コントラスト | 弱 | 強 | 弱 |
ダンス衣装 | 水着 | 制服 | ユニフォーム |
ダンス外衣装 | ポロシャツ | 水着 | ユニフォーム、制服 |
歌詞中登場人物 | 僕/君 | ?/あなた | ?/君 |
時間性 | 実況的 | 回顧的 | 不可逆的 |
五感 | 視覚的遠さ | 視覚的遠さ・触覚的近さ | 聴覚的遠さ |
※書きかけ
石膏像から見る『桜の花びらたち2008』PV
2008年2月27日に発売されたAKB48の8枚目のシングルである『桜の花びらたち2008』のPVを、映像中に登場する石膏像から考察してみたい。
高橋栄樹監督によるこのPVは、架空の私立葉瑠女学院卒業式当日の断片的なシーンと、卒業生たち(主に小嶋陽菜・前田敦子・峯岸みなみ・大島優子・河西智美)の回想の映像とのモンタージュによって構成されている。
女子高の瑞々しい生活の様子と卒業という儀式ののセンチメンタリズム、そして散り始めた桜の花びらの描写によって、涙腺を刺激されたというファンブログが散見される。
そうしたブログの筆者は、(わかめが恥ずかしげが見た限り)このシングルの発売当時に成人を迎えている場合が多く、すなわち、懐古によってそのような感傷を味わっているファンが多いようである。
このPVの中でも際立っているのが、楽曲を中断してまで挿入された、(ミロのヴィーナスと思われる)石膏像へのキスシーンではないだろうか。
このPVは、まず峯岸による答辞に始まり、次に卒業式当日の美術室における前田と大島の対話に引き継がれる(このパロディは『マジすか学園』最終回の送辞にも見られる)。
歌唱を挟んだ後、回想シーンとして、大勢集まった生徒に囃し立てられて大島が石膏像にキスをする。
その様子を食い入るように見つめる前田、盛り上がる周囲。
そして後に、卒業式当日に訪れた誰もいない美術室で当の石膏像にキスをする前田。
このようにシークエンスが流れる。
いわゆる「間接キス」を求める前田、という点で、前田から大島へ向けられるある種の恋慕は明らかであるが、この両者の外には少なくとも、前田→大島→河西→美術教諭という思慕の方向性が見られる。
彼女たちの思いの中心となるのはいずれも美術室であり、そこには象徴的にいくつもデッサン用の石膏像が登場する。
金井直の論文「石膏像小史――起源と変容」によれば、元来、西欧での美術教育における石膏像デッサンがもたらすであろうものとは、線的様式や、鉛筆や木炭の線の疎密による明暗表現であった。
幕末からの西洋絵画受容に伴い、日本もまたフォンタネージやラグーザらの指導によって、石膏デッサンを美術教育に取り入れた。
その後長らく、写実という名目において石膏デッサンは美術教育の中心的な科目となったが、しかし、1970年代後半以降、アメリカの抽象表現主義に倣うような動向が日本においても勃興し、写実を主とする表現は時代遅れなものとみなされるようになった。
わかめが恥ずかしげの周囲の20代の美大在籍者・出身者、あるいは現・元美術部所属者に尋ねても、自発的にデッサンすることはあったが美術の授業で必須科目として強要されたことはないという答えが多く、これは現在(2005年代以降)においても同様のようである。
対象の輪郭を正しくとる、或いは明暗法を身に付けるという点で石膏デッサンは大きな効果をもたらすであろう。
しかし、東京藝術大学においてさえ、全ての学科の入試問題にそれが導入されているわけではないということからも、石膏デッサンが日本の美術教育において占める位置が小さいことが伺える。
デッサン用の石膏像が登場したということの他に、映像中の台詞にも注目したい。
冒頭、卒業式当日の美術室での前田・大島の対話を以下に書き起こす。
大島「これからさ、あと1年とかがね、10年とか、もっと先になったら、今のことどう思い出すんだろうね」
前田「そんなのわかんないよ」
大島「あーあの時はすっごい悲しかったなーとか、今と同じくらいに思い出せるのかね?
それとも、そのうち皆忙しくなっちゃったりして、『んー、悲しかった…かも?』とかなっちゃったりとかしてね」
前田「忘れないよ、絶対」
卒業式の日にまさに卒業しようとするこの二人の間には、ある種の恐怖が横たわっている。
それは、未来から現在へ、あるいは現在から過去へと遡及することに対する恐怖であり、また、記憶を放棄すること、忘却することに対する恐怖である。
過去を振り返り懐かしむことを、人は「ノスタルジア/ノスタルジー (英)nostalgia/(仏)nostalgie」と呼ぶ。
過去を懐かしむことを意味するこの言葉の語源は、ギリシア語の「nostos(家へ帰る)」と「algia(苦しい状態)」とを結びつけた17世紀の造語であるとされる。
上記の対話、ひいては『桜の花びらたち2008』の前田・大島ら生徒にとっては、帰るべき家となるのが葉瑠女学院での学生生活であり、それを思い出すことは苦しいのであろう。
そのことは、小嶋・前田・峯岸・大島・河西らの表情や演技から汲み取ることは容易だ。
金井の論文によれば、美術教育の柱が石膏像デッサンに求められなくなったのは1970年代後半であるというから、これはおニャン子クラブの登場よりさらに時代を遡る。
秋元康やこのPV監督である高橋栄樹が、美術教育における石膏像の盛衰をどれだけ理解していたかはわからない。
否、理解度がどうであろうと構わない。
映像として公開された『桜の花びらたち2008』PVが、それを見る者に与える効果は、以上のような石膏像という小道具によって組み立てられたノスタルジーによるものではないのだろうか。
また、ノスタルジーの語源に即すとすれば、アイドルの源へ帰ることは、様々な点で苦しい。
ハロー!プロジェクト、おニャン子クラブ、小泉今日子、松田聖子等々、時代を遡りながらAKB48の先達となるアイドルを参照していくことは、興味深いと同時に苦しみも伴う。
自己言及的なアイドルと言われることが少なくないAKB48にとって、『大声ダイヤモンド』での大ヒット前夜となるこの楽曲とそのPVが占める位置は大きいのではないだろうか。
※参考論文
金井直「石膏像小史――起源と変容」(『美術フォーラム21』第20号、醍醐書房、2009年)
美術フォーラム21 第20号 特集:物質性/マテリアリティの可能性
- 作者: 美術フォーラム21刊行会
- 出版社/メーカー: 美術フォーラム21刊行会/醍醐書房
- 発売日: 2009/11/27
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『マジすか学園』最終回
『マジすか学園』最終回を見て思ったことをいくつか。
- 境界線・敷居
前田敦子が卒業式会場である体育館に足を踏み入れるシーンがやけに強調されているように思われた。
思い返せば、このような時間的・空間的な越境や切り替えはドラマの随所で見られる。
メガネを外す行動、校門をはじめとした門やドアをくぐる、吹奏楽部への階段を上る、等々。
これらの行動は、時間的・空間的な境界線あるいは敷居と見ることができる。
境界線や敷居は、境界線として定められることによって、自らが隔てている任意の二項を対立させる(二項対立の後に境界線が生じるのではない)。
ドラマにおいても境界線は、その外と中、一方と他方という徹底的な対立構図を生んでおり、例えば卒業式場である体育館は、闘争と悪意に満ちた校舎とは対照的に、「平和」で論理的な空間として描かれる。
また、言葉(台詞)にもこの境界線が見られ、第7話でのシブヤの「世の中は前田とそれ以外の雑魚でできている」という台詞は、その発話によってまさに「前田」と「(自らも含む)それ以外の雑魚」を対立させることとなる。
- 交代、対立、循環史観
最終回ラストシーン、ベンチに座る前田さんの前に現れたSKE48松井珠理奈さん。
松井さんは拳を一発突きつけて、「世代交代は近いぜ」と言い放ち、対する前田さんは鋭い目線と共に「いつでもこいよ、1年坊」と返す。
ここで世代間の対立が提示されている。
旧世代である前田さんがトップであることを新世代の松井さんが否定しようとすることは互いに正と反であるが、この対立構図自体に対する否定はドラマ中には描かれておらず、従って正と反が止揚して合となるようなマジ女の体制はありえない。
松井さんが「世代交代」と明言しているように、この対立は対立のまま保たれ、両者が和解し協調して未来に繋がるのではなく、あるものがまた別のものへと絶え間なく入れ替わることによってドラマの世界は構築されている。
つまり、ドラマの世界観は弁証法による進歩史観ではなく、有限な要素の交代によってのみ進んでいる(と錯覚する)循環史観によって成り立っているといえる。
型が循環する芸能界において、おニャン子クラブの焼き直しと言われることもあるAKB48に引き付けて考えるならば、ドラマ『マジすか学園』をそのままAKB48の縮図として見ることの説得力が増すかもしれない。
参考文献
- 作者: ヴィンフリートメニングハウス,Winfried Menninghaus,伊藤秀一
- 出版社/メーカー: 現代思潮新社
- 発売日: 2000/10/01
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(また加筆修正するかも)
『マジすか学園』第9話
『マジすか学園』第9話は、小嶋陽菜さん演じるトリゴヤとの対決が中心。
鶏小屋に閉じ込められることでもう一つの人格が覚醒し、触れた人やモノの過去を読み取り、その過去の傷を掘り返すような「言葉」を吹き込むことによる相手の精神破壊を武器とするキャラ。
ラッパッパ四天王がAKB48の様々な側面を代表しているとしたら、という仮定に基づくと以下。
・シブヤ:流行物好きな、いわゆる「普通の」女の子 (実際、常人のような能力をもっており。あっさり前田に倒された)
・ブラック:創造的、聖母、慈愛、ひいてはディーバ、歌姫
・ゲキカラ:攻撃的、破壊的、外部からの客観的視点
・トリゴヤ:過去言及的、内部からの客観的視点
※これらの四天王の性格描写説明のために、かねてからの説明役であるチームホルモンが、自ら犠牲となるかたちで解説を加えているのではないか(ex.ヲタの鼻鉛筆、ウナギのトラウマ掘り起こし)
このように今回第9話でトリゴヤが内部からの客観的視点を持つ者として描かれていると仮定すると、今回はチームシャッフル後の新体制への布石と見ることができるのではないだろうか。
実際、この回より、番組のスタッフロールが新チーム体制での表記となっている。
そして、これは新チームK『RESET』公演開幕前最後の放送であった。
前田一頭体制の解体を反省し、チームの再構築を図るということが、今回表象されているのではないか、という結論に至った。
また、精神分析による読解もできそうなのが今回の面白いところ。
保健室のシーンで登場した鏡及びそこに映る前田の像は自身の鏡像段階として、あるいは、大島が「(トリゴヤの)本当の武器は言葉だ」と述べた辺りは、大文字の他者による抑圧がアイドルとしての能力を飼い殺しにしていると見ることも、不可能ではない。
とはいえ、これにはより慎重な分析が必要。
それぞれの回毎に何かを語ることができても、ほぼ毎回脚本家と演出家が異なっているため、全話を通じての結論を導き出すには慎重さを要する。
『マジすか学園』第8話
SKE48の松井玲奈さん演じるゲキカラが中心となった第8話について。
前田敦子さんがAKB48(東京秋葉原)を代表しているとすれば、ゲキカラはその対抗勢力としてのSKE48(名古屋栄)を代表しているのであり、従って今回第8話はその両者の関係からAKB48の姿勢を問うているのではないか、という仮説。
第8話に見られる特徴をSKE48楽曲に結びつけてみる。
『Innocence』
・爪噛み(4〜5歳)、感情の無抑制、破壊衝動 …幼児性、無邪気さ
・血糊の赤
『強き者よ』
・喧嘩最強
(※爪噛みに関しては、『雨のピアニスト』「私は爪を噛む」という歌詞に関連しているのでは、との指摘もあり)
これらのことから、ゲキカラがSKE48を代表・象徴していると仮定する。
代表二者の直接対決の際にゲキカラは前田に「友達やられて怒ってる?」と訊ねる。
この台詞に至るまでにゲキカラはチームホルモン(研究生)、歌舞伎シスターズ(チームK)、学ラン(チームK)、チョウコク(チームK)を倒しており、そこで言われている「友達」とはオリジナルメンバー以外のAKB48メンバーを指すと考えられる。
このシーンは、AKB48の外部であるために比較的客観的視点ともいえるSKE48が、オリメン及び古参ファンに他チームメンバーをどのように見ているかを問うていることの言い換えである。
また、前田に対してゲキカラは「前田、あんたは疫病神だ」とも続けている。
この台詞から、新参が古参を、あるいは後輩メンバーが前田一頭体制を批判していることを、二人の役柄に代弁させているのではないかという結論に至った。
しかし、オリメン以外の役がゲキカラによって倒された中、だるま(SDN48なちゅ)だけは攻撃されなかった。
これに関しては諸説。
だるまもSKE48側として扱われているためか、もしくはSKE48の対抗勢力としては眼中に入れられていなかったためか。
初回から名古屋名物である手羽先焼きが勝利の象徴として用いられてきたことから、前者である可能性が高い。
第8話においては新たに手羽先を食すシーンは見られなかった。
前田がゲキカラをすっきり倒さなかったことも鑑みると、AKB48とSKE48は今後互いに対等に競争を続け共存していくことが示唆されているのではないかと考えられる。
そんな感じ。
次回は小嶋陽菜さん演じるトリゴヤとの対決。
脚本と監督がほぼ毎回変わるので、第8話の構図がそのまま応用できるかはわからないけれど、オリメンを相手にして前田はどう動くか、期待。
『マジすか学園』第7話をめぐる一考察
AKB48メンバー総出演と銘打ったテレビ東京系『マジすか学園』ですが、先週の第7話について思ったことをいくつか。
- 論題1 「シングルマザー」設定はどこへ行ったのか。
柏木由紀さん演じるブラックは、制作発表時にシングルマザーという設定を与えられていたが、劇中ではそのようなことは明言されなかった。
しかし、明言されていないながらも、ブラックをキリスト教における聖母マリアに見立てることによって暗示されたのではないか、という仮説。
(持ち物から)→キリスト教との関連
・ロザリオ(カトリック、聖母信仰)
・聖書
(演出から)→超越的存在としての表現
・照明効果(光、闇)
・音響効果(鐘やパイプオルガンを用いたBGM)
・カメラアングル(下から上へのアオリ構図)
・素早さを武器とする役柄設定
聖母マリアといえば、イエス・キリストを処女懐胎して産み育てた人物として知られるが、その父はヨセフではなく神。
何かを産みはしたけれど、そこには具体的な父親が不在。
これを翻案すると、「神(秋元康)の力を借りて何か(エンターテインメント等)を産む女性の集団(AKB48)」と。
AKB48の一側面が、聖母(=シングルマザー)という像を借りてブラックに代表されているのではないか。
- 論題2 生死のサイクルが中心テーマとなっているのではないか。
秋Pはかつて『クイックジャパン』のインタビューで、「学校は入学して卒業するという“生死”を疑似体験する場である」ということを述べた。
その生死が対比されて要所要所で象徴的に表されているのが第7話ではないか、という仮説。
・「始まりの場所」神社 ― 大島「余命一ヶ月」宣告、大凶みくじ
・前田大島間に生じた友情? ― それぞれの手下(四天王)同士の対決
・前田四天王間の絆を知る前田 ― 倒される柏木
・前田が弁当を食べる ― 「うんこ」、便秘、排泄 …フロイト・肛門期(仮想的死)
→すなわち、前田サイドの「生」と大島サイドの「死」が対比されている。
このようなAKB48における生死のサイクルが、ドラマの中にも持ち込まれているといえる。
それと、あまり関係無いかもしれないけれど、チームホルモンのムクチとだるまが一つのホルモンを箸で取り合うシーン。
幼い頃から不吉なことだと教え込まれてきた箸渡しは、火葬された骨のメタファーか?
チームホルモンジャージには「肉は焼いても骨焼かれるな」とあるし。
前田四天王に倒されたブラックは、イエス・キリストと同じ磔刑のポーズでフェードアウトする。
しかもそれが満月の夜であることから、復活祭(イースター)に結びつけることができるかもしれない。
論題1で述べたように、ブラックにAKB48の一側面を代表させているとすれば、復活するのはAKB48。
そして秋Pを「神」とするのであれば、その「神」が生んだおニャン子クラブが消滅した後、再びアイドル界を席捲すべく復活するのがAKB48、と読むことができるのではないだろうか。
- その他
だるまとチームホルモンが、「皆で食べた方が美味い」と言ってたこ焼きを食べるシーン。
手羽先は名古屋征服の、たこ焼きは大阪征服のメタファーと考えられる。
非常に長く固く読みづらい記事ですみません。
深読みと妄想とこじつけのため、どれが正解ということは無いけれど、ほんの一考察として。
他の放送回や、放送終了後に全体を通しての分析も必要。