撮影者の影――PVにおける空撮とファン心理
写真や映画といった、カメラを用いた映像においては、撮影者の影や姿が映り込むことは「失敗」と見なされがち。
その映り込みが、意図していなかった偶然によるものであればなおさらのこと。
カメラが太陽に背を向けた状態でモデルを順光撮影するとなると、カメラの影が映らないように配慮することは、かなりの神経を使うのではないでしょうか。
しかし、先日発売されたAKB48のシングル『ポニーテールとシュシュ』PVの随所に挿入される空撮シーンでは、そのカメラを載せたヘリの影がばっちりと映り込んでいます。
その映り込みが意図的かどうかは直接制作者に訊かない限りはっきりとしませんが、このPVを鑑賞する人たちに対して影がどのような効果や作用を与えるかということについては考察の余地がありそうです。
『ポニーテールとシュシュ』のPVが空撮を用いたこと、さらにはグアムという地で海外ロケを行ったことは、メンバー自身も語っている通り、方々でも話題となったようです。
このPVの中で空撮シーンが挿入されるのは10回。そのうちヘリの影が映っているのは9回。
いずれも自然光の下での撮影ですが、メンバーが映っている場合とメンバーが不在の場合とがあり、映っている場合でも、どれが誰であるかの判別はかなり難しいです。
そのため、メンバーに焦点を当てたシーンだとは考えにくく、むしろヘリの影を捉えるためだけのシーンであるかのようにさえ思われます。
では、ダンスシーンはどうでしょうか。
ダンスシーンは、クレーンに乗せられたカメラアイが縦横無尽に視線を走査させていますが、見事とも言えるほど影ゼロ。
影の短い時間(おそらく正午頃から午後2時前後まで)が選ばれていたこともありますが、光線角度が緻密に計算されている上に、危うく映り込みそうな瞬間は巧みに編集でカットされています。
これほどの気の遣いようとは対照的な空撮の影。
写真論において、写真に写り込んだ撮影者の影は、被写体-撮影者-鑑賞者を繋ぐ契機として捉えられています。
撮影者の影があるとはつまり、被写体(モデル)の前にはカメラを構えた撮影者がいたことを示します。
その映像を見る鑑賞者は、消失点から推定される、カメラ=撮影者の位置に立つことになります。
撮影者が映像の中に落とす影は、鑑賞者の影であるということもできます。
この三者の関係をぐっと単純化すると、映像に写り込んだ影は鑑賞者、すなわち私やあなたの影でもあるわけです。
空撮という視点の特殊性にも触れてみると、ヘリコプターからの視界というのは、陸地に立つ人間の肉眼では捉え得ない映像です。
そのような視界をPVに盛り込み、さらには鑑賞者が自らを置き換えることができるような影を写し込むことは、矛盾しているようにも思われます。
しかし、そのような超越的な、いわば神の視点にファンが入り込めるというこのPVの構造は画期的なのではないでしょうか。
それは、まだ未熟なアイドルを見守っていくぞ、という構造です。
では、ここで、PVにおける空撮の一例として、SKE48『青空片思い』とも比較してみましょう。
この曲の場合、空撮挿入12回となっており、『ポニーテールとシュシュ』をわずかに上回っていますが、映像中にヘリの影は映り込んでいません。
影の代わりに、地上(とはいえ高層ビル屋上)のカメラは飛行中のヘリの姿を捉えているほか、空撮を行ったヘリと、ダンスシーンの背後に映り込んだヘリとが同一であるかのようにシークエンス編集がなされています。
また、PVの随所でビル屋上ステージを取り囲んで踊り声援を送るファンの姿が挿入されています。
ファンはその踊る彼らに自らを代入することを半ば強要されるようなかたちで、PVに、そしてSKE48に関与せざるを得ないのです。
空撮をキーワードにPVを紐解いていくと、AKB48『ポニーテールとシュシュ』とSKE48『青空片思い』におけるアイドルに対するファンの立場は、次のように言い換えることができるでしょう。
それは、前者が「窓」であり、後者が「鏡」であるということです。
具体的な姿を持っていなくとも、ファンが自らを代入することができる前者。
似て非なれどやはり似ている具体的ファン像が既に先回りして示された後者。
上空高くから全てを見晴らすかのようにアイドルを見守るファンの姿が『ポニーテールとシュシュ』には直接的に示されています。
これは、「君」を遠くから見守るだけで良いという歌詞内容の「僕」に相当するものともいえるでしょう。
傍観するでもなく、自らの似姿を見るでもなく、被写体であるアイドルと直接の結びつきを見出すことのできるこのPVは、アイドル(楽曲)史において多分に画期的なものであると、わかめが恥ずかしげは考えます。