AKB48楽曲大賞2010

今年度のAKB48楽曲大賞について。
今年が初めての投票。
日頃偉そうなことを言っておいて、これまで関わってこなかったことが恥ずかしいです。
わかめが恥ずかしげの投票内容は以下。



  • 楽曲部門

1位 AKB48チームK 6th『オケラ』
2位 SDN48佐渡へ渡る』
3位 渡り廊下走り隊『骨折ロマンス』
4位 AKB48チームB 5th『愛のストリッパー』
5位 AKB48チームA 6th『I'm crying』
何となく各チーム各ユニットがまんべんなく、といった印象。
エレクトリックな曲が上位なのは、ハロプロ楽曲大賞とも似たような傾向かもしれない。
5曲に絞るのは結構キツかった。

  • お気に入りのPV

AKB48チームYJ『Choose me!
もはや無双。
推しメンが所属しているからとかの理由を超えて、一本の映像を通して、おおよその「女子高生像」が見事に表現されている。


以上の通りです。

ハロプロ楽曲大賞2010

本年度のハロプロ楽曲大賞について。
今回の投票楽曲とポイントとその感想を以下に。



  • 楽曲部門


・1位 Berryz工房『グランドでも廊下でも目立つ君』(須藤茉麻熊井友理奈
ポイント : 4
選考理由 : YMO世代でもないけれど、とにかくグンバツに良い。聴きすぎてもう何の感想も出てきません。それが答えです。


・2位 Buono!『うらはら』
ポイント : 3
選考理由 : みやびちゃんの裏声が切なさを加速させるように思われます。ねっとりしたベースとは“うらはら”に、乾いたボーカルとギターのギャップが好きです。


・3位 Buono!『Independent Girl 〜独立女子であるために』
ポイント : 2
選考理由 : わたくしも独立女子でありたいのです。


・4位 Berryz工房『友達は友達なんだ!』
ポイント : 0.5
選考理由 : 裏打ちのピアノがずるい。熊井ちゃんボイスがそのまた裏をかくという構図が中毒的。


・5位 モーニング娘『大きい瞳』[亀井絵里道重さゆみ田中れいな]
ポイント : 0.5
選考理由 : 亀井さんの卒業発表直後に聴いて、彼女の存在感の大きさを再認した一曲。ついでに言うと、平田祥一郎さん大好きです。



  • PV部門


・1位 Berryz工房『友達は友達なんだ! (Dance Shot Ver.)』
ポイント : 3
選考理由 : 衣装にしては地味、私服にしては派手(非日常的)なところをうまく突いた良映像。楽曲のタイトル通り、乙女の友達-恋人の天秤にまつわる悲喜こもごもが表現されていて良いです。


・2位 真野恵里菜『元気者で行こう!(ディレクターズカット Ver.1)』
ポイント : 2
選考理由 : 真野ちゃんに鞭で打たれても良いですか?


・3位 モーニング娘。女と男のララバイゲーム (White Dance Shot Ver.)』
ポイント : 1
選考理由 : 白か黒か、で言ったら白の方が好き。



  • 推しメン部門


1位 栞菜
選考理由 : 女優として着実にキャリアを積んでいるようで、安心しています。応援しています。名前変わったけれど好きです。


以上の通りです。

『少女は真夏に何をする?』の孤独


SKE48」カテゴリ新設。
SKE48の『ごめんね、SUMMER』のc/wである『少女は真夏に何をする?』PVに関する考察です。
シングル表題曲のPVも色々と思うところはあるのですが、まずはカップリング曲を単独で分析します。



この曲の主題は「孤独」であるように思われます。
楽曲の歌詞だけに目を向ければ、深読みすれば処女喪失がテーマのようです。
その切れ味の鋭い文字情報を撹乱させるかのように、PVは巧妙に作りこまれています。
学習塾の窓際の席で講義を受ける木下さんの姿から始まる映像。
彼女が「どうする?」と仲間にメールで呼びかける。
高速バスに集結する乙女たち。
行き先は東京。
まずここで、中央(東京)対地方(名古屋)という疎外に由来する「孤独」。


東京行きの呼びかけに応じた仲間たちは、父親に進路の説教を受ける高田さん、ネットカフェでチャットに興じる須田さん、イヤホンで外部を遮断した若林さん、友人と言葉を交わしつつも携帯を手にする桑原さん。
いずれも、目の前の対象との関係が希薄であるような描写。
これもまた、現前に対する「孤独」。
彼女たちにとっては、携帯のディスプレイの中の方が、目の前の現実よりも「リアル」な世界。
その「リアル」に惹きつけられてバスへと走る。
バスの中は女子世界。
人目を気にすることなく、可愛さも欲望もさらけ出す(注目すべきは、財布から紙幣を取り出す小野さんの表情の残酷さ)。
東京に到着した少女たちは真昼の繁華街へ繰り出す。
地元とどっこいどっこいであろう流行度のショップで、制服を脱いでその店で見繕った洋服に着替える。
クレープを買い食いする、プリクラを撮る、ネイルサロンに入る、そしてカラオケに入る。
外のことは一切忘れて、全力でバカ騒ぎする少女たち。
そのうちに窓の外ではとっぷりと日も暮れて、やがて娘の行方を案じた母親から電話が入る。
隔絶されて絶対安全だと思っていた東京の一角にまで、敷居を越えて少女に呼びかける電話。
仲間とはしゃいで、東京では忘れていた「孤独」、それは家族における「孤独」。
それを思い出させられ、一同は夜の東京で足を止め、虚空を見つめる。
孤独。


このPVにおいて演出されている「孤独」は、あくまで演出でしょう。
PV中に何度も挿入される、ダンスシーンとリップシーン。
ダンスシーンは、観客が点在する薄暗いクラブのステージで、まばゆい照明を浴びるメンバーたち。
リップシーンは、メンバーが一人ひとり、赤いカーテンを背にしている。
ドラマ・ダンスシーン・リップシーンという構成は、は通常のPVと特に変わりは無い。
しかし、この曲において特異なのは、ステージでのダンスシーンで、誰もステージのメンバーに目を向けていないこと。
メンバーは壇上から、観客(映像の内外、あるいはカメラ自体)に必死にアピールしている。
映像の中の誰一人として彼女たちを見る者はいないが、カメラの外にいるPVの鑑賞者は食い入るように彼女たちを見つめる。
繁華街のシーンでも同様で、街を歩く少女たちに目を向ける者は無く、彼女たちのコミュニティーだけでストーリーは展開される。
実際のSKE48のメンバーとしての彼女たちは、劇場やステージで数百人の視線を一身に浴びる存在です。
その事実とは正反対の、誰も目もくれない様子が描写されたこのPV。
つまり、映像の中の彼女たちを見ているのは我々だけであり、我々はカメラの外からしか彼女たちを見つめることが許されていないのです。
まなざしが疎外された、まなざされる対象の「孤独」。
これこそが、この楽曲のPV全体を取り巻いている「孤独」の正体なのではないでしょうか。

影、追記

前田敦子写真集『前田敦子』(撮影・西田幸樹)より。

撮影者の影はモデルに触れてはいるものの、物理的接触は無い。
走り去る後ろ姿を見つめているだけ、という点が「遠さ」の表現に繋がっているように思われたので貼っておきます。

撮影者の影――PVにおける空撮とファン心理

写真や映画といった、カメラを用いた映像においては、撮影者の影や姿が映り込むことは「失敗」と見なされがち。
その映り込みが、意図していなかった偶然によるものであればなおさらのこと。
カメラが太陽に背を向けた状態でモデルを順光撮影するとなると、カメラの影が映らないように配慮することは、かなりの神経を使うのではないでしょうか。
しかし、先日発売されたAKB48のシングル『ポニーテールとシュシュ』PVの随所に挿入される空撮シーンでは、そのカメラを載せたヘリの影がばっちりと映り込んでいます。
その映り込みが意図的かどうかは直接制作者に訊かない限りはっきりとしませんが、このPVを鑑賞する人たちに対して影がどのような効果や作用を与えるかということについては考察の余地がありそうです。


ポニーテールとシュシュ』のPVが空撮を用いたこと、さらにはグアムという地で海外ロケを行ったことは、メンバー自身も語っている通り、方々でも話題となったようです。
このPVの中で空撮シーンが挿入されるのは10回。そのうちヘリの影が映っているのは9回。
いずれも自然光の下での撮影ですが、メンバーが映っている場合とメンバーが不在の場合とがあり、映っている場合でも、どれが誰であるかの判別はかなり難しいです。
そのため、メンバーに焦点を当てたシーンだとは考えにくく、むしろヘリの影を捉えるためだけのシーンであるかのようにさえ思われます。
では、ダンスシーンはどうでしょうか。
ダンスシーンは、クレーンに乗せられたカメラアイが縦横無尽に視線を走査させていますが、見事とも言えるほど影ゼロ。
影の短い時間(おそらく正午頃から午後2時前後まで)が選ばれていたこともありますが、光線角度が緻密に計算されている上に、危うく映り込みそうな瞬間は巧みに編集でカットされています。
これほどの気の遣いようとは対照的な空撮の影。


写真論において、写真に写り込んだ撮影者の影は、被写体-撮影者-鑑賞者を繋ぐ契機として捉えられています。
撮影者の影があるとはつまり、被写体(モデル)の前にはカメラを構えた撮影者がいたことを示します。
その映像を見る鑑賞者は、消失点から推定される、カメラ=撮影者の位置に立つことになります。
撮影者が映像の中に落とす影は、鑑賞者の影であるということもできます。
この三者の関係をぐっと単純化すると、映像に写り込んだ影は鑑賞者、すなわち私やあなたの影でもあるわけです。


空撮という視点の特殊性にも触れてみると、ヘリコプターからの視界というのは、陸地に立つ人間の肉眼では捉え得ない映像です。
そのような視界をPVに盛り込み、さらには鑑賞者が自らを置き換えることができるような影を写し込むことは、矛盾しているようにも思われます。
しかし、そのような超越的な、いわば神の視点にファンが入り込めるというこのPVの構造は画期的なのではないでしょうか。
それは、まだ未熟なアイドルを見守っていくぞ、という構造です。


では、ここで、PVにおける空撮の一例として、SKE48『青空片思い』とも比較してみましょう。
この曲の場合、空撮挿入12回となっており、『ポニーテールとシュシュ』をわずかに上回っていますが、映像中にヘリの影は映り込んでいません。
影の代わりに、地上(とはいえ高層ビル屋上)のカメラは飛行中のヘリの姿を捉えているほか、空撮を行ったヘリと、ダンスシーンの背後に映り込んだヘリとが同一であるかのようにシークエンス編集がなされています。
また、PVの随所でビル屋上ステージを取り囲んで踊り声援を送るファンの姿が挿入されています。
ファンはその踊る彼らに自らを代入することを半ば強要されるようなかたちで、PVに、そしてSKE48に関与せざるを得ないのです。


空撮をキーワードにPVを紐解いていくと、AKB48ポニーテールとシュシュ』とSKE48『青空片思い』におけるアイドルに対するファンの立場は、次のように言い換えることができるでしょう。
それは、前者が「窓」であり、後者が「鏡」であるということです。
具体的な姿を持っていなくとも、ファンが自らを代入することができる前者。
似て非なれどやはり似ている具体的ファン像が既に先回りして示された後者。
上空高くから全てを見晴らすかのようにアイドルを見守るファンの姿が『ポニーテールとシュシュ』には直接的に示されています。
これは、「君」を遠くから見守るだけで良いという歌詞内容の「僕」に相当するものともいえるでしょう。


傍観するでもなく、自らの似姿を見るでもなく、被写体であるアイドルと直接の結びつきを見出すことのできるこのPVは、アイドル(楽曲)史において多分に画期的なものであると、わかめが恥ずかしげは考えます。

『ポニーテールとシュシュ』読解

今日は、『ポニーテールとシュシュ』というタイトルとその歌詞から、楽曲を
読解します。
一見すると物語的な曲ですが、注意深く深読みをしていくと、かなり戦略的にアイドル像を構築していることがわかりました。


タイトルは英語のponytailと仏語のchouchouから成っており、前者はさらにponyとtailに分けることができます。
まず、それぞれの単語を、現在用いられている意味や語源に言及しながら見てみます。

  • ・(英)ponytail

 言わずもがな、後頭部で髪を一つにまとめて束ねた髪型。

  • ・(英)pony

 小型の馬。
 少ない金額、わずかな量。
 若い女性合唱団、女性ダンサー。
 (動詞)金を支払う。

  • ・(英)tail

 尾、末尾、後部、後頭部、後ろ髪。
 尾行者、追従者。
 (俗語)セックスフレンド、女陰。

  • ・(仏)chouchou

 もとはchou(キャベツや頭部等、球状のものを指す)。
 (一般的に幼児語)お気に入りのモノ、人物。
 髪をまとめるための、布で包まれた輪ゴム。


次に、歌詞を見てみます。
登場人物は、とある男子学生と、彼が憧れる女子学生。
教室を舞台として、男子学生が女子学生を斜め後ろの席から眺めている。
その男子学生は、女子学生のポニーテールとシュシュを架け橋として、教室で目にしている光景を、海辺を走る妄想にオーバーラップさせていく。
しかしそれは叶わぬ片思いのままで曲は終わる。
妄想の中で彼と彼女の目が合いますが、現実においても妄想においても二人の間に物理的な接触は一切認められません。
視覚やイマージュだけが、彼の精神的な支柱といえます。


さて、題名と歌詞から『ポニーテールとシュシュ』を見てきました。
しかし、これはとある男子高生の妄想物語であるだけにとどまりません。
先に見たタイトルの単語の意味を見ると、アイドルに関わるものがいくつも散見されます(2009-11-07 「商業-情動-慈悲」)。
女、金、愛。
そこに今回加わった歌って踊る少女、あるいはそれを尾行・追従すること。
「握手会」や「ハイタッチ」、「サイン会」という制度を除けば、ファンはアイドルを視覚的に捉えるのみで、物理的接触が許されない存在です。
ましてや、「恋の尻尾(=tail)は捕まえられない」とあるように、アイドルと性交渉をもつなど、到底成し得ないことでしょう。
女子生徒=アイドル=AKB48メンバーを、彼女たちが気付かないところで見ている、というヲタの心理が、後席からじっと見つめているという『ポニーテールとシュシュ』の歌詞に恥ずかしげも無く表れているようです。
つまり、『ポニーテールとシュシュ』は、女子学生に恋する男子学生の物語を傍観しているだけの楽曲ではなく、メタレベルでアイドル・AKB48とヲタの関係を描写しているものではないか。
以上が、今回の結論です。


まとまりが無いのもご愛嬌。
愛ゆえの焦りが出ました。