石膏像から見る『桜の花びらたち2008』PV

2008年2月27日に発売されたAKB48の8枚目のシングルである『桜の花びらたち2008』のPVを、映像中に登場する石膏像から考察してみたい。
高橋栄樹監督によるこのPVは、架空の私立葉瑠女学院卒業式当日の断片的なシーンと、卒業生たち(主に小嶋陽菜前田敦子峯岸みなみ大島優子河西智美)の回想の映像とのモンタージュによって構成されている。
女子高の瑞々しい生活の様子と卒業という儀式ののセンチメンタリズム、そして散り始めた桜の花びらの描写によって、涙腺を刺激されたというファンブログが散見される。
そうしたブログの筆者は、(わかめが恥ずかしげが見た限り)このシングルの発売当時に成人を迎えている場合が多く、すなわち、懐古によってそのような感傷を味わっているファンが多いようである。
このPVの中でも際立っているのが、楽曲を中断してまで挿入された、(ミロのヴィーナスと思われる)石膏像へのキスシーンではないだろうか。


このPVは、まず峯岸による答辞に始まり、次に卒業式当日の美術室における前田と大島の対話に引き継がれる(このパロディは『マジすか学園』最終回の送辞にも見られる)。
歌唱を挟んだ後、回想シーンとして、大勢集まった生徒に囃し立てられて大島が石膏像にキスをする。
その様子を食い入るように見つめる前田、盛り上がる周囲。
そして後に、卒業式当日に訪れた誰もいない美術室で当の石膏像にキスをする前田。
このようにシークエンスが流れる。
いわゆる「間接キス」を求める前田、という点で、前田から大島へ向けられるある種の恋慕は明らかであるが、この両者の外には少なくとも、前田→大島→河西→美術教諭という思慕の方向性が見られる。
彼女たちの思いの中心となるのはいずれも美術室であり、そこには象徴的にいくつもデッサン用の石膏像が登場する。


金井直の論文「石膏像小史――起源と変容」によれば、元来、西欧での美術教育における石膏像デッサンがもたらすであろうものとは、線的様式や、鉛筆や木炭の線の疎密による明暗表現であった。
幕末からの西洋絵画受容に伴い、日本もまたフォンタネージやラグーザらの指導によって、石膏デッサンを美術教育に取り入れた。
その後長らく、写実という名目において石膏デッサンは美術教育の中心的な科目となったが、しかし、1970年代後半以降、アメリカの抽象表現主義に倣うような動向が日本においても勃興し、写実を主とする表現は時代遅れなものとみなされるようになった。
わかめが恥ずかしげの周囲の20代の美大在籍者・出身者、あるいは現・元美術部所属者に尋ねても、自発的にデッサンすることはあったが美術の授業で必須科目として強要されたことはないという答えが多く、これは現在(2005年代以降)においても同様のようである。
対象の輪郭を正しくとる、或いは明暗法を身に付けるという点で石膏デッサンは大きな効果をもたらすであろう。
しかし、東京藝術大学においてさえ、全ての学科の入試問題にそれが導入されているわけではないということからも、石膏デッサンが日本の美術教育において占める位置が小さいことが伺える。


デッサン用の石膏像が登場したということの他に、映像中の台詞にも注目したい。
冒頭、卒業式当日の美術室での前田・大島の対話を以下に書き起こす。


 大島「これからさ、あと1年とかがね、10年とか、もっと先になったら、今のことどう思い出すんだろうね」
 前田「そんなのわかんないよ」
 大島「あーあの時はすっごい悲しかったなーとか、今と同じくらいに思い出せるのかね?
    それとも、そのうち皆忙しくなっちゃったりして、『んー、悲しかった…かも?』とかなっちゃったりとかしてね」
 前田「忘れないよ、絶対」


卒業式の日にまさに卒業しようとするこの二人の間には、ある種の恐怖が横たわっている。
それは、未来から現在へ、あるいは現在から過去へと遡及することに対する恐怖であり、また、記憶を放棄すること、忘却することに対する恐怖である。
過去を振り返り懐かしむことを、人は「ノスタルジア/ノスタルジー (英)nostalgia/(仏)nostalgie」と呼ぶ。
過去を懐かしむことを意味するこの言葉の語源は、ギリシア語の「nostos(家へ帰る)」と「algia(苦しい状態)」とを結びつけた17世紀の造語であるとされる。
上記の対話、ひいては『桜の花びらたち2008』の前田・大島ら生徒にとっては、帰るべき家となるのが葉瑠女学院での学生生活であり、それを思い出すことは苦しいのであろう。
そのことは、小嶋・前田・峯岸・大島・河西らの表情や演技から汲み取ることは容易だ。


金井の論文によれば、美術教育の柱が石膏像デッサンに求められなくなったのは1970年代後半であるというから、これはおニャン子クラブの登場よりさらに時代を遡る。
秋元康やこのPV監督である高橋栄樹が、美術教育における石膏像の盛衰をどれだけ理解していたかはわからない。
否、理解度がどうであろうと構わない。
映像として公開された『桜の花びらたち2008』PVが、それを見る者に与える効果は、以上のような石膏像という小道具によって組み立てられたノスタルジーによるものではないのだろうか。
また、ノスタルジーの語源に即すとすれば、アイドルの源へ帰ることは、様々な点で苦しい。
ハロー!プロジェクトおニャン子クラブ小泉今日子松田聖子等々、時代を遡りながらAKB48の先達となるアイドルを参照していくことは、興味深いと同時に苦しみも伴う。
自己言及的なアイドルと言われることが少なくないAKB48にとって、『大声ダイヤモンド』での大ヒット前夜となるこの楽曲とそのPVが占める位置は大きいのではないだろうか。


※参考論文
金井直「石膏像小史――起源と変容」(『美術フォーラム21』第20号、醍醐書房、2009年)

美術フォーラム21 第20号 特集:物質性/マテリアリティの可能性

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