『マジすか学園』最終回

マジすか学園』最終回を見て思ったことをいくつか。

  • 境界線・敷居

前田敦子が卒業式会場である体育館に足を踏み入れるシーンがやけに強調されているように思われた。
思い返せば、このような時間的・空間的な越境や切り替えはドラマの随所で見られる。
メガネを外す行動、校門をはじめとした門やドアをくぐる、吹奏楽部への階段を上る、等々。
これらの行動は、時間的・空間的な境界線あるいは敷居と見ることができる。
境界線や敷居は、境界線として定められることによって、自らが隔てている任意の二項を対立させる(二項対立の後に境界線が生じるのではない)。
ドラマにおいても境界線は、その外と中、一方と他方という徹底的な対立構図を生んでおり、例えば卒業式場である体育館は、闘争と悪意に満ちた校舎とは対照的に、「平和」で論理的な空間として描かれる。
また、言葉(台詞)にもこの境界線が見られ、第7話でのシブヤの「世の中は前田とそれ以外の雑魚でできている」という台詞は、その発話によってまさに「前田」と「(自らも含む)それ以外の雑魚」を対立させることとなる。

  • 交代、対立、循環史観

最終回ラストシーン、ベンチに座る前田さんの前に現れたSKE48松井珠理奈さん。
松井さんは拳を一発突きつけて、「世代交代は近いぜ」と言い放ち、対する前田さんは鋭い目線と共に「いつでもこいよ、1年坊」と返す。
ここで世代間の対立が提示されている。
旧世代である前田さんがトップであることを新世代の松井さんが否定しようとすることは互いに正と反であるが、この対立構図自体に対する否定はドラマ中には描かれておらず、従って正と反が止揚して合となるようなマジ女の体制はありえない。
松井さんが「世代交代」と明言しているように、この対立は対立のまま保たれ、両者が和解し協調して未来に繋がるのではなく、あるものがまた別のものへと絶え間なく入れ替わることによってドラマの世界は構築されている。
つまり、ドラマの世界観は弁証法による進歩史観ではなく、有限な要素の交代によってのみ進んでいる(と錯覚する)循環史観によって成り立っているといえる。
型が循環する芸能界において、おニャン子クラブの焼き直しと言われることもあるAKB48に引き付けて考えるならば、ドラマ『マジすか学園』をそのままAKB48の縮図として見ることの説得力が増すかもしれない。


参考文献

敷居学―ベンヤミンの神話のパサージュ

敷居学―ベンヤミンの神話のパサージュ


(また加筆修正するかも)