溜まるネ申

『ネ申テレビ』に関して書かねばと思いながら、何だかんだでシーズン2最後の富士登山から全く書いていない現状。
何かもう今さら、みたいなー。
そもそも誰が定期的に読んでるかもよくわからないので。
過去分に関しては今後気が向いたときにでも。
先週のNYでのオリジナルPV撮影に関して思ったことをいくつか。


オンオフの激しい秋元才加さん。
・マイク・フォックス組
 『RIVER』振り付けをまだ覚えていない、という非選抜メンバーの悲哀。
 それにもかかわらず高い吸収力を見せる岩佐美咲さん。
 早くも自分のダンスにしてしまっているところがすごい。
 最後のシーン、ステージで踊り終えたメンバーが、ステージ脇に駆けつけたメンバーに視線を投げかけるシーンは、まさに鳥肌モノ。
 ステージに立つことがAKB48の使命なのだと思わせます。
 一見するとわかりやすいストーリー性を持っているように思いますが、悪く言えば単線的なナラティヴ。
・ジョナサン・カレラ組
 白バックのスタジオで、チューブトップで肩出し、ネイティヴ・アフリカン風メイク。
 素足も同様に顔料でメイク。
 キャンヴァスへの素手でのペインティング。
 バカ殿みぃちゃん。
 「トテモキレイ」な高城亜樹さん。
 マイクとの比較でいえば、ジョナサンの方が明らかに構造主義的。
 モンゴロイドである日本人=AKB48が、「コーカソイドではない」「モンゴロイドではない」、アフリカンメイクでの撮影という点に、ソシュールに始まる差異の体系を見出しました。
 白色監督だからこそ思いつき、黄色キャストだからこそ受け入れた演出。
 …いや、アフリカへの言及はこの辺りにしておきましょう。
 これまでのフェミニズム理論やコロニアル理論が経験してきたように、アフリカだ植民地だと取り沙汰すことがかえって帝国主義的なのかもしれません。


両PVは、どちらも日本のAKB48を手がけてきた監督にはまず見られない観点とクオリティを有しています。
短絡的な感想及び両者の違いは以下。
マイク作品は全編通して見ての最後の最後でのカタルシス大。
始→終への単線的ストーリー。
ジョナサン作品は白バックでの撮影ということで視覚的にも「背景」を排除しているため、ストーリー性が薄いが、メイクによりパッと見のインパクト大。
アフリカ=大地=生命=原始といった図式を胸中にもつ人であれば、画面からエネルギーや生命感といったものを感じ取ることは想像に難くありません。
極端に言えば、マイク作品は途中から見れば「わからない」作品で終わってしまうのに対し、ジョナサン作品は途中のどこから再生したとしてもある一定のメッセージを解読することができるでしょう。
視聴者の目から見て両極端とも言える両監督を起用したことは、注目に値すると思います。